あの60年代はいつだって私のすぐそばにある
「自分は日本人なのかな ああやっぱり違うかも でもどちらかといえば日本人かも」
混血の人間のアイデンティティは常に揺れ動いて不安定だ、だからこそそれを土台からぶち壊してくれる三島由紀夫をぼくは崇拝していた
____このままいったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう(産経新聞寄稿文)____
まさしくそのようになった、日本は変わった。
21世紀の日本は、国際化の渦に飲み込まれて無機質な国に変貌を遂げた。
日本は日本でなくなった。
拡大解釈をすれば、中国だってアメリカだって、いつかは何かが起こって今の姿とは似ても似つかない様相へ変わっていくだろう。
私は今までも国というものをあまり信じてこなかったし、ボーダーレスな価値観を重んじてきた。
それなのに、全く正反対のことを叫んでいた三島という人に惹かれるのは本当に不思議だ。
でもあの人の言葉はきれいで、喋り方は泥臭いのに言葉は華麗に跳ねていって、すんなりとお腹のなかに沈殿していくような、そんな軽やかな重みがある。
ビートルズ、ウッドストック、ベトナム戦争。プラハでも春は過ぎていき、love&peaceは単なる流行りにすぎなかった。
マリリン・モンローが死にケネディも死に月面着陸によってかぐや姫も死んだ。
あの60年代はいつだって私のすぐそばにある。憧れなんて言葉じゃ足りない、心酔をも越えてぼくはもう疑似体験を済ませてある。
死は生を装って若者へにじりよっていた。あの時代に青春を昇華できていたならばきっとぼくは死んでいた。
なにもかも流行りだ、なにもかも変わるしなにもかも終わる、情熱も信仰も愛も全部なくなる
私は何人にもなれないしどの国にも受け入れられないけど、アジア人であることは確かで、地球人であることも確かで、宇宙にいるのだから宇宙人であることも確かだ
なんかもうそれだけだ